書評:『ゆらぐ脳』池谷裕二・木村俊介/文藝春秋

いつもの脳について語る本ではなく、脳に対する研究スタンスについての思いが語られた一冊。

ゆらぐ脳

ゆらぐ脳

  • 第1章 脳を分かる

パーツをきわめても、脳は分かりません。
世界最新の脳の記録方法を開発したら、「発見」が押し寄せてきました。
「発見」は、たどり着くものではなく、生まれるもの?
音楽理論を利用して脳にアプローチしてみましょう。
脳の活動を、オーケストラのようにとらえてみるのです。
経済学理論を利用しても脳が分かる?
分解だけをしても本質は分かりません。
ハンドルこそが渋滞の原因だ!……ん?
「へえっ」と分かったとしても、本当に分かったのでしょうか。
人は分かったと思いたがる動物なのです。
自分を自発的に書き換えられる。これが生命の本質だと思います。
脳の「ゆらぎ」が人間のバランスを保っているのではないでしょうか。
切実な戦争体験を聞いて脳への想いが変わりました。
好奇心があれば、そのうち答えは見つかる?
目的を最短距離に定めたら、ミスが生じると思うのです。
脳の「分かった」は妄執?
なんでも容認することが多様性を認めること?
脳の「自発活動」は歌のように繰り返しています。
合理主義は、結局非効率になりかねません。
意識は膨大な無意識の世界に比べたらちっぽけです。
研究の優劣は他人の理解を得られるかどうかにも左右されます。
論文に物語は必要です。伝えるプロセスが研究を左右するのです。

  • 第2章 脳を伝える

サイエンスの評価は論文の成否に左右されます。
サイエンスにプレゼン能力は必須?
実験や発見ができても、論文が書けなければオタクで終わる?
サイエンスのプレゼンには二種類の「分かる」があります。
一つは、従来の理解の範囲を超えたプレゼン。
もうひとつは、従来の理解に少し(しかし意外な)発見を放り込むプレゼン。
サイエンスも真理も政治や派閥が決めていく?
サイエンティストの作業は「吸収」「生産」「発信」の三つに収斂します。
一対一で人に聞く情報が一番?
やりすぎなければ「研究」は成功しない?
サイエンスにはコミュニケーション能力も必須です。
信念がなければサイエンスは成立しない?
あまりに謙虚だと、科学になりません。
説明には、必ずウソが入り込むのではないでしょうか。
神様が動物を設計したとしたら、ずいぶん非効率な設計にしちゃいましたね。
プロのサイエンティストに必要なものは、「器用」「丁寧」「要領」です。
ストーリーテラーにならないと、実験屋のままで終わる?
結局、アイデアはコミュニケーション能力からしか生まれない?
発見は視点が増えることで生まれるのかもしれません。
仮説を立てない研究方法、これを考えつづけています。

  • 第3章 脳はゆらぐ

「何がやりたいか」より「何を試すことができるか」が大切です。
「科学的な論理を詰める」よりも「好奇心」を先に走らせたら、どうでしょう。
脳の「ゆらぎ」は「ノイズ」だと思われていました。
物思いに耽っているとき、それがゆらぎ=自発活動だと推論した研究があります。
実は、「ゆらぎ」は、もっと原始的な役割を果たしているようです。
意識という花形の研究と自発活動はカンケイなかったんです。
そう知って私はちょっとホッとしました。
無意識の世界にこそ脳の重要な役割がかくされていると思うのです。
ムダに見えるものが大切ではないだろうか?
脳は安定してしまったらダメで、つまりフラフラとゆらぎがあることが重要なのです。
科学の基本は再現性です。しかし、脳にはイヤになってしまうほど再現性がないんです。
つまりは、脳はワケの分からないものなのです。
脳の性能にはホレボレすることがあります。
しかし、人はどうもそれを充分に使いこなしていないようなのです。
神経細胞のガッカリするほどヘタクソな使用法が観察されてしまいます。
私たちの脳は、おそらくムダだらけです。だからこそ、かわいくなるものです。

これは本当に目次です。
脳についての非常に興味深い著作であった『進化しすぎた脳』以降、いくつかの著作は出しているものの本題の部分についての本を出さないなぁと思っていたのですが、本書を読んで納得です。池谷裕二さんの海馬研究はとても興味深かったが、そこに拘るのではなく、さらなる一歩を踏み出し、そしてさらにこうして研究業界そのものの一種のタブーにまで挑戦しているところがいい。
ぜひ脳研究においても、日本の研究界にも、ブレイクスルーをもたらして欲しいものです。