書評:『クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識』西尾維新/講談社文庫

戯言シリーズ第2弾。

クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識 (講談社文庫)

クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識 (講談社文庫)

Googleで"西尾維新"を検索すると、Wikipediaの紹介ページがトップ、続いて2番目に『西尾維新は禁書にしたほうがいいんじゃないか - EMPTINESSの修行時』というブログのエントリーが載ってくるのだけれども、そんなエントリーが載る理由がなんとなくわかった第2作だった。別に作品が悪いとかではなく、作品としてはとてもよいのだが、ライトノベルとして本書を読もうとして読んだ(特に多感なお年頃の)読者の中には、確かに単なる読書と考えられなくなる危険性を秘めている作品ともいえるのかもしれない。もちろん、それは作者の高い才能をつぎ込んだ作品だからこその裏返しともいえるのかもしれないけれども。

人を愛することは容易いが、人を愛し続けることは難しい。人を殺すことは容易くとも、人を殺し続けることが難しいように。生来の性質としか言えないだろう、どのような状況であれ真実から目を逸らすことができず、ついに欺瞞なる概念を知ることなくこの歳まで生きてしまった誠実な正直者、つまりこのぼくは、五月、零崎人識という名前の殺人鬼と遭遇することになった。それは唐突な出会いであり、また必然的な出会いでもあった。そいつは刃物のような意志であり、刃物のような力学であり、そして刃物のような戯言だった。その一方で、ぼくは大学のクラスメイトとちょっとした交流をすることになるのだが、まあそれについてはなんというのだろう、どこから話していいものかわからない。ほら、やっぱり、人として嘘をつくわけにはいかないし−

西尾維新の作品は、講談社文庫から刊行されるにあたって「西尾維新文庫」としてシリーズされているが、そんな風に特例的な?扱いをしたくなるだけの影響力がある作品だ。ライトノベルといえばそのとおりだし、くくりとしてはミステリーなのかもしれないが、はたして自分がいわゆる多感なお年頃に本書を読んでどういう感想を持つのかについては、ちょっと自信が持てない。はたしてライトノベルとして本書を扱っていいものなのかどうか−…。今どきな感じのイラストレーションによってデコレーションされているものの、西尾維新の作品には場合によっては、単なる読書の枠を超えた影響を与えてしまう可能性があるだけの言葉がある。

  • 第1章 斑裂きの鏡(紫の鏡)
  • 第2章 遊夜の宴(友夜の縁)
  • 第3章 察人期(殺人鬼)
  • 第4章 赤い暴力(破壊応力)
  • 第5章 酷薄(黒白)
  • 第6章 異常終了(以上、終了)
  • 第7章 死に沈む(シニシズム)
  • 第8章 審理(心理)
  • 終章 終われない世界

文庫本化に沿って読み進めている私はまだ2作しか読んでいないので、もしかしたら私の西尾維新に対するイメージはまだ的外れなのかもしれない。でも、いい意味でも悪い意味でも、魅惑される作風であることは確かだ。多くの読者が(一種の危険視も含めて)評価する理由もわかるし、森博嗣に続いて自分が文章を書いてみようという気をへし折ってくれる作家だとも感じている。立て続けに読むべきではなかったかな(^_^;)…。