書評を書いてしまうが、実はまだ第1章は読んでいない。なぜなら、第1章は森博嗣の自作についてのあとがき扱いなのだが、本書で「あとがき」が書かれている森博嗣の作品のいずれについても、私はまだ読んでいないからだ。まだまだ私が消化した?森博嗣は10年前の時点に過ぎない。
- 作者: 森博嗣
- 出版社/メーカー: メディアファクトリー
- 発売日: 2005/11
- メディア: 文庫
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- まえがき
- 第1章 森語り−自作小説のあとがき
- 第2章 森読書−書評や本に関するエッセィ
- 第3章 森人脈−作品解説から
- 第4章 森好み−趣味に関するエッセィ
- 第5章 森思考−考え方、スタンスに関するエッセィ
- 特別収録−デビューまえの手紙、高校生のインタヴューに答えて
- 文庫化に際して
個人的に、特に読む価値のある箇所は第5章。森博嗣のスタンスは本人は(おそらく)思っていないにしろ独特で、そして確固たるスタンスが確立されている。いくつかのエッセィの、ほんの一部を紹介してコメントしてみたい。
- 近頃の子供たちときたら
子供を教育しよう、などと大それたことを考えるなら、大人は少なくとも恥ずかしいことをしてはいけない。真面目な話だ。子供が勉強をしているとき、酒を飲んだり、テレビを見たりしてはいけない。子供が塾に行っている時間は、自分も勉強しよう。子供以上に、親が勉強すべきである。お母さんだって、子供と一緒に大学を受験したら良い。
その通りだ。もちろん様々な事情によって、大人には時間が限られている(ように感じるだけ?)が、子供の勉強机などは用意したくはない。長い一続きの机で、親も子供も勉強する。「勉強しろ」などとは言わない。いかに態度で示すことが出来るか。子供は親の背中を見て育つとまではいわずとも、文句を言わせないだけのことはやってみせる必要があると思う。
- 学ぶ理由
仕事と手法が与えられたとき、それを的確に解決できるのが、学士。仕事を与えられたとき、手法を自分で模索し、方向を見定めながら問題を解決できるのが、修士。そして、そもそも、そのような問題を与えることができるのが博士である。社会の需要は量的にこのピラミッドになっていることだろう。
いわゆる理系の学部と比較して、いわゆる文系の学部における修士課程、さらには博士課程の価値は残念ながら低い。最近やっと、MBAがもてはやされ、経営学修士の学位を持っていることの価値が認められるようになったものの、一般的にMBAは一度社会人を経験した上で取得することが本筋となっており、大学からストレートに大学院に進学してもその2年間ないし4年間に対する評価はそれほど高くはない。文学部や芸術系の学部ならばいざ知らず、社会系や経済経営系、情報系(これは理系?)などの分野における大学院の価値が低いことは残念なことだ。ただし、それは逆に言えばそれだけの期間、追加してさらに学問を究めることの価値がそれらの分野においては社会で認められていないということであり、逆に大学側、そしてそれらの分野で学ぶ/学んだ人たちは(自分を含め)社会に対してそれらの価値を認めさせるぐらいの気概を持って取り組んでいく必要があるといえるだろう。
- 子供には新聞を読ませない
ニュースを除けば、記事の多くは持ち込まれたネタで構成されている。記者がアンテナを張って、現地に出向いて聞き出した情報は少ない。そんな暇はないのだろう。つまりは体の良い「広告」に過ぎないのだ。たとえば、学者として新聞に記事が載ったりすると恥ずかしい。「こいつは自分で売り込んだ」と受け取られるからである。
別に新聞に価値がないとはまったく思わないし、新聞が社説などにおいて自社の主張を語ることもかまわないとは思うが、たしかに物事を決めつけるかのように書く点はいかがなものかと思う。ああそうなのか、と素直に受け止めるのではなく、本当にそうなのだろうか、と多少なりとも斜めに受け取るぐらいの意識が確立されるまでは、たしかに新聞を読むことはあまり勧められないのかもしれない。まぁどっかのCMのように、新聞の隅から隅まで目を通すような小学生がそんなにはいるとは思えないけれども。
エッセィ集なので、1つ1つの文章は短い。買わずとも、第5章をパラパラと斜め読みしてみるぐらいはしてみてほしい。