書評:『フラット革命』佐々木俊尚/講談社


フラット革命

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読む価値がある一冊であることは間違いないのだが、本書の書評はちょっと難しい。基本的にオススメするのかあまりオススメしないのか、ある程度の方向性についてスタンスを持って書評を書こうとしているのだが、本書には様々な要素が絡んでいてなんともいいがたいのだ。
まずは体裁。あえてハード本にしてみたのか、それとも出版社側の考えでハード本にすることにしたのか。個人的には、1600円という価格設定にはまぁ理解できるのだが、あと300円くらい下げてソフトカバーにすればもっと売れて、結局トータルの売り上げは増えるんじゃないかと思ったりもする。というのも、この本の内容は基本的に通勤本だと思うから。ハード本は混んだ電車内でつり革にしがみつきながらだとページをめくるのも一苦労だ。
続いてタイトル。本書を最後まで読んでみると、内容としてはあまり"フラット革命"ではない気がする。もちろん、本書に対して著者はかなりの精力を注ぎ込んで執筆を行ったようなので、考え抜いた末のタイトルなのだろうが、本書を読んで最も考えさせられた部分はネットにおける公共性についての部分だった。まぁタイトル次第で本の売り上げは大きく変わるから、そういう意味では"フラット革命"というタイトルは手にとってもらうきっかけとしてはよいのかもしれないが…。
さて、ここからが本題の内容について。
第1章は「フラット化するマスメディア」。既存のマスメディアである新聞やテレビなどと、インターネットによって形作られつつある個人によるマスに向けられたメディアであるブログや個人ウェブサイトの、お互いをけん制しあい、そもそも理解できないとしかいえない様な様々な出来事が紹介され、そこにある大きな問題点を提起している。
何らかの「機関」による検閲や編集を経て形づくられるこれまでのメディアに対して、様々な個人のむき出しの意見や考え方が直接ぶつかり合うネットの新しいメディアのカタチはこれまでにないメディアの世界を作り出した。本書で紹介されている、様々な実例はどれも興味深い。
第2章は「よるべなく漂流する人たち」。これまで生きてきた普通の社会においてその居場所をなくしてしまった人が、ネットを通じてこれまでとは違う世界に入り込み、そこで漂流する姿を描いている。

p.81
彼女が最終的にたどり着いたのは、「出会い系」というインターネットの荒野である。
彼女は百人以上の男と出会い系サイトで知りあい、そしてそれらの男の大半と肉体関係を持った。
しかし驚くべきことに、寂れた場末の街角のようなその荒野で、彼女はひとり奮闘して自分だけの小さな共同体をつくりあげ、ささやかな自分なりの<公>を打ち立てようと、孤軍奮闘していた。

そうした実例と、著者による日本社会の分析、そしてネットが登場したことによるその社会の変化について、本章ではなかなか興味深い考察を展開している。

p.108
二十世紀初頭のドイツの社会学フェルディナント・テンニースは、有名なゲマインシャフトゲゼルシャフトという概念を提示した。
地縁や血縁にもとづいた共同体であるゲマインシャフトは、社会が近代化され、産業資本主義によって工業化が進められるのと同時に徐々に消滅し、利害関係にもとづく人工的な共同体ゲゼルシャフトに移行していくと説いた。彼がゲゼルシャフトの例として挙げたのは大都市や国家、企業である。
だが日本では、企業がテンニースのいうようなゲゼルシャフトにはならなかった。利益に基づく共同体ではなく、地縁・血縁関係に限りなく近いゲマインシャフトの要素を色濃く残していて、いわば「擬似ゲマインシャフト」のような存在だった。労働とその対価という契約に基づくのではなく、社員の生活を丸ごと抱え、人間関係も、全人格的なつきあいが求められていたのである。

そんな日本にネットは何をもたらしたのか、そして今後どうなっていくのか。ネットという新しい「つながり」を技術ではなく人の生活にどんな影響を与えているのかという側面で描いている。
第3章は「組み替えられる人間関係」。ネットにおける人間関係。特にその相互の出会いや社会との繋がりについて本章は注目する。

p.147
極論すれば、この世界で、ひとりの人とひとりの人が出会うということは、セレンディピティに支配されているのである。
セレンティピティというのは、偶然をとらえて幸運に変えてしまう能力のことだ。もともとは『セレンディピティ物語 幸せを招ぶ三人の王子』(エリザベス・ジャスミン・ホッジス、よしだみどり訳・画、藤原書店、2006年)というおとぎ話が語源になっている。

p.149
いずれにしても、そこに参加している<わたし>の意志は、浮遊する膨大な<わたし>の中のひとつの部分でしかない。
言い方を変えれば、全体としては最適化されているのだけれども、しかし個人ひとりが「わたしの意志によって世の中が動いた」と実感できるわけではない。
とはいえ、個人が世界に密接につながっているという実感は厳然と存在している。そのような基盤の中では、自分がどんな情報、どんな人間、どんな企業とつながるのかは、ある意味で偶然的に提供されるように、利用者個人には見える。
つまりはセレンディピティなのだ。

そして本書はやっと本題に入っていく。

p.181
中央の制御なしに、<公>を保つのは可能なのだろうか?
<公>の消失した世界では、ひたすらアナーキーな世界が現出してしまうのだろうか?
それとも、別の可能性が拓けているのだろうか?

そして最終章である第4章は「公共性をだれが保証するのか」。ネットの急激な広がりにより、これまで<公>を保証していた(とされていた)マスメディアがその力を失っていく中で、新しいメディアであるネットにおいて新しい<公>は生まれるのかという問いかけが大きく掲げられる。

p.209
世界で起きていることがすべてフィルタリングされ、しかし砂糖菓子のようにくるまれた安心社会に戻るのか。
それとも生々しい現実と相対することが可能で、しかし自分の頼る場所も見えなくなった浮遊社会へと歩み出すのか。
つまるところわれわれは、この二つの世界観の選択肢に迫られているのである。
そして後者の選択肢こそが、インターネットの推し進める、フラット革命の本質なのである。

フラットな社会によってもたらされる、『公共性を保証する機関がなくなった社会』は新しい公共性を保証する仕組みが生まれてくるのか、それとも公共性を生み出すことはできず、限界を迎えるのか。
本書最大の面白さはこの第4章にある。著者本人がその只中にあった出来事から、著者が公共性について考えた結論とは。
ぜひ本書を手に取り、著者が出した結論とそこに至った経緯を読み取り、そして自分自身で考えてみて欲しい。そうした取り組みから、ネットの<公>は生まれていくのだろうから。